織物の屏風に拘る ― 歴代川島甚兵衞の情熱がやどる 織物のための屏風絵
- CULTURE
5月、京都は三大祭りの一つ”葵祭”の季節です。
葵祭は上賀茂神社と下鴨神社の祭礼で、平安時代の装束を着飾った人々の行列が市中を練り歩く優美な祭として知られています。現在、川島織物文化館では『あなどるなかれ 織物図案「葵祭」』と題し、綴織壁掛(タペストリー)の制作過程を紐解く、原画や織下絵などをご紹介しています。
時をさかのぼること1893(明治26)年、川島織物は葵祭を題材とした綴織の巨大な綴織の壁掛「葵祭」を製作しました。それは縦3.4m、幅7.3mにおよぶ織物で、現在はアメリカ・インディアナポリス美術館が所蔵しています。製作から100年以上を経た今日、実物を見ることは容易には叶いませんが、川島織物文化館に残された原寸大の原画や織下絵などから、その概要を知ることができます。
当時、川島織物の当主であった二代川島甚兵衞は、壁掛を製織するにあたり、原画制作を京都四条派の日本画家である今尾景年、人物画の表現を西洋画の田村宗立に依頼。自らも書物を集め故実を徹底的に考証し、ありのままの情景を壁掛に表現するために約10年を費やしました。
このことからも、こちらの綴織壁掛は、復興当時の葵祭の様子を伝える史料として貴重なものと言えます。
壁掛の図をよく観察してみると、今日の祭と大きな違いが見られます。それは斎王代(さいおうだい)の存在です。現在の葵祭といえば、 何と言っても 斎王代。まず斎王代を中心とした華やかな女人列が思い浮かびますが、これは1956(昭和31)年に新たに加えられたもので、この綴織壁掛の図中には女人列や手輿(たごし)に乗った斎王代の姿はなく、黒い束帯(そくたい)姿の勅使が主役を務めています。
綴織壁掛には、本紙と呼ばれる主題を織り出した部分の周囲に、保護や装飾の役目を果たすボーダーと呼ばれる縁飾りが付けられることが多くあります。この「葵祭」にも、そのボーダーがデザインされていて、本紙を引き立てています。ボーダーの原画も今尾景年の筆によるもので、舞楽装束に用いられる色鮮やかな迦陵頻(かりょうびん)の羽根や、雅楽の楽器である大鉦鼓(おおしょうこ)など、金地に華やかなモチーフが配されています。
あまり知られていませんが、葵祭の行列の中には舞人と楽人の役目をする陪従(べいじゅう)がおり、上賀茂・下鴨両社で行われる神事の際には、彼らにより舞楽「東游(あずまあそび)」が奉納されます。また葵祭には行列の他にも多くの儀式や神事があり、そこでも雅楽や舞楽の奉納が執り行われています。平安時代の風俗を色濃く残す祭と雅楽や舞楽の深い関わりから、綴織壁掛「葵祭」のボーダーにこの意匠が選ばれたのでしょう。壁掛からは舞の様子や音色が伝わってくるようです。
原画と織下絵を合わせたボーダーの全長は実に40mを超えます。この長~いボーダーを早く美しく描き上げるために、どのような作戦を立てたのでしょう。現存するボーダーの原画や織下絵をじっくり鑑賞すると、モチーフの配置に試行錯誤を重ね、作業の効率化を図るために工夫を凝らした痕跡が見られます。
原画や織下絵の地紋には、菱文や桐文などの細部に一定のパターンが見られ、型紙を用いて同じ文様を刷ったことがわかります。そうして表現した地紋ですが、原画に於いては更に手描きで加筆し、細部を仕上げた制作工程が想像できます。
また、原画を見てみると、窠文(かもん)や霰文 (あられもん) は地紋の上に直接描かれていますが、織下絵の方は、予め切り抜いた形を複数枚用意し、貼り付けて仕上げています。舞楽装束や楽器に至っては、全体のバランスなど最適な位置を探り、決定後に貼りつけたことが伺えます。
原画のサブボーダー(ボーダー部分の上下をさらに縁取る、細いボーダー部分)は、2種類の文様を大量に用意し貼りつけて仕上げています。織下絵では、型刷りや手書きをして文様を連続させたサブボーダーをメインボーダーの紙に貼り合わせる形になっています。
ボーダーの描き方一つにも、柄の繰り返しやそれぞれのモチーフを、分業により仕上げていたことが想像できます。まだまだ解明できていないことも多くありますが、展示中の製作過程の資料からは、様々な情報が垣間見え、時空を超えて製作に関わった人々の息遣いを感じることができます。
今年の葵祭は、残念ながら昨年に引き続き、新型コロナウィルスの感染拡大防止のため中止が決定しました。
川島織物文化館でしばし優美な気分に浸ってみませんか。
あなどるなかれ 織物図案「葵祭」